感謝しながら歩もう

 家族に守られた平穏な子ども時代、順調を絵に描いたような新婚時代。それが三十一歳で突然難病となり、障害者となった。それまでの私は、何でも自分でできると思っていた。
人の助けを受けなくても、立派に生きているつもりでいた。
 たとえば、母親が健在な場合はたいてい、嫁いだ娘が出産する時、あるいは産後の何日かは、実家に帰ったり、母親に手伝いに来てもらったりする。私はそういうことも一切せず、産後も産院から自宅に直行し、その日のうちからもう、家事もすべて一人でやり、生まれた子どもも一人で育てた。
そして、「自分一人で立派にやっている。誰の助けも必要ない」かのように思っていたようだ。
 そんな私が、足が動かなくなり、両目が見えなくなる。両手も動かなくなり、寝たきりとなり、いまでは半日、人工呼吸の助けを借りている。何から何まで人の助けを借りなければ生きていくことさえできない自分。ああ、あんんて思い上がっていたのだろう。
体が自由な時も、実は、いまと全く同じで、本当は神と人との助けや支え、また許しと愛を受けて、それこそ生きてこれたのだと初めて知った。
と、多発性硬化症の阿南慈子さんは語る。
活かされていることに気付き、もっと謙虚になり、感謝しながら歩みたいものである。

善意を押し付けると『刃』になる

 「不害」とは相手を傷つけぬことだが、よく考えてみると、時には「善」の行為が刃となるということは忘れがちである。善が刃となるとは何か。善の押しつけである。善のお節介である。それが善の行為によるものだけに、当の本人は気付かぬことがある。
善いことだから、少々押し付けても当然だと思うこともある、と太田久紀さん(元駒沢女子短大教授)は語る。
「善いことをしている」という自意識、「相手のためにしてあげている」という思いが、相手の心の負担となり、お荷物となっていることに気付いていない人がいる。何のことはない。善いことをしている、人のために働いているという自己満足に酔っているにすぎないことを気付かないのも、やりきれない一つである、と尼僧の青山俊董さんも語る。
「夫を心から愛し、夫には献身的に尽くした」と語った人が、作家の野上彌生子さんに「それがあなたの喜びだったからでしょう」といわれて、返す言葉に詰まった。
自分を犠牲にして人のために尽くしているつもりでいるけれども、実はそれが自分の生き甲斐や喜びで、自己満足にすぎないことがよくある。
タゴールの「あなたを愛させていただくことが、あなたのお荷物にならないように」と言った言葉をかみ締めたいものだ。

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